僕も試合で負けたら罰走。点を取られたら罰走。フォアボールを出したら罰走というやり方で育ってきました。
一昔前は当たり前で、ほとんどの選手が経験してきたことだと思います。
はたしてそのやり方がよかったのか。
僕なりの考えをまとめてみました。
結論からいうと、今の時代にはそぐわないということです。
それだけでなく選手の成長の妨げにもなる可能性があるということです。
練習や試合では、全力を出すことが成長につながります。
しかし、試合でどんなに頑張っても「負けたら走らなきゃいけない」「フォアボールを出したら走らなきゃいけない」とわかっている選手が試合で力を出し切ることは至難の技だと思います。
毎回そうなら試合後に備えて、無意識に走るための体力を温存するようになることは想像できます。
罰走があるから力を温存したり、試合や練習前に不必要に厳しい走り込みやアップをしたためにすでに疲れてしまい、力を出し切れなければ、正確に課題や問題点を見つけるのが難しく、技術の向上につながりにくくなります。
罰走は選手が成長するためと思ってやらせるなら、罰ではなく試合の結果がどうなろうと走らせるべきだし、ただの罰なら誰一人としてやらせるべきではありません。
メンタルを鍛えるためと言う人もいますが、鍛えられるか鍛えられないかもわからないことをするよりも、そこを専門にトレーニングする、メンタルトレーニングをした方が効率的です。
また、そこを専門に勉強している優秀なメンタルコーチも存在します。そういう専門家に頼むべきです。
僕の考えは、論理的思考力や探究心、創造性の先に忍耐力のような耐える力があると思っています。
「継続は力なり」は、おそらくプロ野球選手はみんな持っている考えだと思います。
しかし、論理的思考力や探究心、創造性がない選手が、「継続は力なり」を信じすぎると、積み重ね以外の発想は出てきません。
指導者も同じで、論理的思考力や探究心、創造性がない指導者は、選手にもひたすら継続するよう迫ってしまいます。
上手くいかなければ「もっとやれ」「もっと続けろ」は危険な可能性もあります。
大きく成長したり、殻を破るのは、論理的思考力や探究心、創造性を持ち、何かの思い込みをやめることが必要です。
思考を停止させて、耐えることを選択する前に、問題や課題を解決することを一番に考え、その考えが、耐えることによって解決に向かうと思えて、初めて耐えることを選択するべきだと思います。
練習は上手くなるためにやるのであって、罰を逃れるためにやるわけではありません。
それが染み付いてしまうと、選手が自分から上手くなるための練習を選択できなかったり、自分からハードな練習に取り組むことができなくなります。
そういう意味では、野球界のランニングは、改善しなければいけない部分のひとつではないかと思います。
すべてのチームがとは言いませんが、多くのチームが、ランニングは野球が上手くなるための手段でなければならないのに、選手からしてみれば、ただ走らさられるだけなので、走ることが目的になっていることがあります。
ランニングの意図も説明されず、負荷も強度も曖昧です。
最低でもランニングの意図を理解し、心拍数を測り、インターバルを個別に決めることぐらいはしなければならないと思います。
みんなで同じ距離、同じ量を走るのでは、人によって負荷が違います。
走力がある人にとっては低負荷ですが、走力がない選手にとっては高負荷になります。
僕は、中距離~長距離を走るのが得意であったためにランニングメニューはいつも楽でした。
これは、ランニングメニューで体力を奪われて、自分のやりたい練習ができなくなることが嫌で走れるように練習していたからです。
今思えばかなり無駄なことをしていましたが、そういう時代だから仕方のないことだったのかなと振り返ったりもします。
ランニングメニューがなければ、体力も時間も奪われずにもっと必要な練習に費やすことができたのではないかと思います。
今、社会の変化に対応した人を育むために、文部科学省が新学習指導要領を導入し自ら学ぶ力を身につけさせようとしています。
そんな中で、「失敗して罰せられたくないから頑張る」という考え方は真逆の考え方だと言えます。
野球に当てはめると、今までは、与えられた練習をしていましたが、これからは、その練習によって、何ができるようになるのか、まで考えられる選手に育てることです。
つまり、与えた練習ではなく、上手くなるために何をするべきかを、自ら考えられる選手に育てることが求められています。
スポーツ庁からは「運動部活動の在り方に関する総合的なガイドライン」が出され、自ら考えられる選手には、今まで以上の成長が期待できるのではないかと思います。
これが定着したら日本からもメジャーリーガーが、もっと出てくるのではないかと思います。