他人を育てるということはとても難しいことです。
正解がなく、同じことをしても同じようには育っていきません。
ここで書くことも、あくまで選択肢のひとつで、絶対ではありませんが、何かヒントになることがあればと思います。
他人を育てるのに「これが正解」というものはなかなか示せませんが、「これはしてはいけない」ということはあると思います。
簡単にいえば、倫理的に問題のあるやり方を使って、相手の成長を促そうとすることです。
例えば、そのひとつに暴力があります。
暴力を振るうにも理由があります。
自分のストレスを他人にぶつけるということもあります。
部活動でよく聞く話で、「今日は指導者の機嫌が悪いから気をつけろ」というやつです。
他で作ったストレスを関係のないところでぶつけるということです。
その時の機嫌なので、同じことをしているのに怒られる時もあれば平気な時もあります。
相手を支配したいという考えから暴力に走るということもあります。
指導者自信が軽蔑されたり、甘く見られたり、攻撃されないように暴力による力で上に立ち、自分を守るということです。
暴力や大声で怒鳴ることなどは、相手が段々と慣れてしまい、もっと声が大きくなったり、暴力がエスカレートしていきます。
一度、そういったやり方を身に付けてしまうと、何か問題があった時に、何が悪いのかをきちんと説明し、相手を説得し、納得させて行動変容を促すということが面倒になり、暴力や大声で怒鳴ることから抜け出せなくなってしまいます。
実際の話で、「暴力による指導は子供のためになりませんよ」という話をしたら「じゃあ、どうやって指導すればいいのですか」と言われたことがあります。
暴力から抜け出せなくなっている典型的な例です。
本当に暴力が相手のためになり、成長を促すためにと思って、暴力を振るう人も多くいます。
その多くが、自分自身が暴力や体罰により育ったという思いがある人です。
人間は、理不尽なことがあると、自分がして来たことを肯定するために、理不尽さのなかにも、なんとか良い理由に結びつけようとする心理的傾向を持つと言われています。
「あれは自分のためを思ってやってくれた」「自分はあれによって成長できた」「苦痛は無駄ではなかった」といった形で事実のほうを自分の都合のいいように置き換えて考えます。
このように暴力を使った指導をするのにも様々な理由はあると思います。
体罰やDVを受け続けると、被害者が加害者に好意を抱く。または被害者が身を守るために好意を装うといった行動が見られます。
すると「暴力による指導を理解してくれている」などと思い込むことも少なくないと言われています。
さらに子供になると、善悪の判断ができないので、そのような大人の振る舞いを真似して学習していくことが考えられます。
これだけ暴力根絶が叫ばれている中でなくならないのは、このように非常に根の深い問題だからだと言えます。
だからと言って、アメとムチを使うような、褒める、叱るの指導が効果がないわけではありません。
だれが、いつ、どこで、なにを、なぜ、どのように褒めるのか、もしくは叱るのか、を工夫することで効果的になります。
子供相手なら、子供の発達段階や性格、どのくらい信頼感を持っているかでも大きく効果が変わります。
人によってそれぞれなので正解は分かりませんが、アメとムチを使うには、気をつけた方がいいことはあると思います。
そのときどきの気分や都合で変わるのではなく、一貫性があること。
公平性があり、納得してもらえること。
結果ではなく行動の善し悪しを見ること。
他人との比較ではなく、本人の能力と比較すること。
このようなことに注意を払う必要はあると思います。
褒められた相手がさらにやる気になる褒め方だったのか。
叱られた相手が素直に反省し、行動変容を決意するような叱り方だったのか。
このあたりがアメとムチの使い方の基準になるのではないかと思います。
使い方を間違えてしまって、罰の回避が最優先されれば、創造的な行動や新しい挑戦が促されず、思考が停止した状態を作り出しかねません。
周りへの影響も考えなければ、精神的なダメージを与えてしまうことも考えられます。
子供ならそこから、いじめや不登校になってしまうこともあるかもしれません。
子供は大人の行動や姿勢を見て、育っていきます。
良くも悪くも、身近にいる大人に影響されます。
大人の学ぶ姿勢や諦めずに我慢強く接するのを見て、子供は諦めずに、我慢強く物事に取り組めるようになっていきます。
大人も子供と一緒に成長していき、子供の手本となることが大切だと思います。