「教育とは流水に文字を書くようなはかない業である。
だがそれを巌壁に刻むような真剣さで取り組まねばならぬ。」(森信三)
僕がいろいろと勉強させていただいている先生がいます。
先日、その先生が大切にしている言葉として、紹介していただきました。
とても心に響く言葉だったので共有したいと思いました。
この言葉が教育の本質であり、教育者の我慢強さなしには、人は育たないということを表しています。
子供たちを育てるスポーツの現場でも同じことが言えると思います。
自分自身に言い聞かせる意味でも書いてみました。
「流水に文字を書く」というのは、いくら文字を書いてもあっという間にかき消されてしまうという例えです。
指導者がいくら情熱を傾けて子どもたちに指導しても、それがすべて結果につながるわけではありません。
教えたことが、まったく身につかないこともよくあります。
いくら情熱を持って取り組んだとしても、それがすべて身になることはあり得ないことです。
なかなか思うようにならないのが「教育」だということです。
そんな中でも「巌壁に刻むような真剣さで取り組まねばならぬ」ということです。
何度も、我慢強く、忍耐強く、刻み込むように取り組む覚悟がなければ、教育はできません。
指導者はそれだけの真剣さを持たなければいけないということです。
「流水に文字を書く」「巌壁に刻む」くらいの信念と熱意を持って取り組んでいかなければならないということを改めて感じました。
「何度教えればわかるんだ」と言う前に、「まだ、たった10回しか言ってないのか」「まだ20回しか言ってないのか」「まだ30回しか言ってないのか」そんな考えで接することが教育ではないでしょうか。
もしくは、「この言い方では伝わらないのか」「教え方を変えてみよう」と考えることが重要だと思います。
練習前に言ったことを直後の練習で覚えていないこともあります。
それが次の日ともなれば、覚えていることのほうが少ないはずです。
書いても、書いてもその場から消えていく文字、それでも真剣に書き続けるのが教育ということです。
「何度言ったらわかるんだ!」は教育者の発言ではないということです。
少しでも少ない回数で理解してもらうには、「わからない」「理解できない」と言える環境を作ることが有効です。
わからないときにわからないと言える環境を作るには、指導者の姿勢が重要です。
「なんで、わからないんだ」という叱責ではなく、「言い方が悪かった。ごめんごめん、これじゃ、わからないよね。」という姿勢で選手に接することです。
選手に責任を押しつけるのではなく、指導者が責任を負います。
選手が意欲的に練習に取り組まないときや、やる気がないときに、与えたメニューが悪いからそうなるんだと考えることです。
そうすることで選手とのコミュニケーションが取れるようになっていきます。
例えば、見逃し三振をした選手に「バットを振らなきゃ話にならないだろ」と指導したとします。
それは、ただ叱っただけの自己満足で指導とは言えないと思います。
「どうタイミングを取っていたのか」「どういうボールを待っていたのか」「何を考えていたのか」「なぜ手が出なかったのか」などと、一緒に考えて、改善策を探すことが指導です。
指導とは、諭すことであって、叱ったり、脅したりして言うことを聞かせるという単純なことではないということです。
この言葉で思うことは、人への教育のその前に、自分自身を育てることが目の前の選手を育てる1番の教育なのではないかということです。
人を「教え」「育てる」と同時に、指導者自身が「教えられ」「育てられる」という意識を持つことが必要なのではないかと思いました。
「選手だけが」でもなく「指導者だけが」でもない。共に成長を目指すということです。
子供を育てるのでも、仕事でも、何事にでも、共に成長を目指すという気持ちは大切ではないかと思います。
子供よりも大人になってからの人間教育のほうがはるかに難しいと思います。
年を重ねるほど、さまざまな人生経験から自分が正しいと思い込みがちになります。
また、自分を守るために、自分のしてきたことを正当化し、否定することが難しくなります。
そんな考えに陥らずに、先ずは、自分自身からと強く思いました。
教育に正解があるのか、ないのかわからない中で、何が正しくて何が間違っているのかの判断はとても難しいことだと思います。
さまざまな情報が溢れる中で指導していくのに、自らが学び、後ろ姿で見本を示すために行動する。
そして「子供たちのためになるか」という判断基準を持っていれば、間違った方向に行くことは少ないのではないかと思います。