実力?運?

野球は確率のスポーツと言われていますが、運の要素が多いスポーツとも言えると思います。
だからこそ、運の要素をなるべく減らせるように、プロ野球ではシーズンを143試合と多くの試合数をするのではないでしょうか。
そんな確率の話をしていきたいと思います。

 

例えば、ジャンケンをして勝つ確率は5割です。
負ける確率も5割です。
勝敗は運によって決まります。
ジャンケンを5戦した時の勝ち負けを表してみました。
「○●○○●」
「●●○●●」
「○○○○○」
ジャンケンを5戦した時の勝率は毎回変わると思います。
5戦だけでは、5連勝の勝率10割も考えられます。

「○●○●○●○●○●」という10戦の勝敗を見て、11戦目の勝敗を予想すると「○」と思い込む人が多くいるのではないでしょうか。
しかし、11戦目の勝率も5割です。
「○●○●○●○●○●」のように勝ち負けが交互に続く確率も「●●●●●●●●●●」と10連敗になる確率も実は同じです。
常に次の勝負の勝ち負けは五分五分であるということです。
10戦だけでは勝率5割から大きく離れることもありますが、勝負の数が増えれば、勝率は5割に近づいていきます。

ジャンケンとプロ野球が同じとは到底言えませんが、今年のプロ野球は全球団が勝率4割~6割の中にいます。
大型連勝や大型連敗が多くなるのも野球の勝敗には運の要素が多くあるという証でもあるのではないでしょうか。

 

次は野球の打者の打つ確率を考えてみたいと思います。
プロ野球の打者でいえば、例えば、今年のここまでの打率が3割の選手が今日、打席に立ったとします。
しかし、その打席でヒットを打つ確率は、3割とは言えません。
投手との相性、打者の調子、環境、状況、運、など非常にたくさんの要素によって、打つ確率が決まります。
どんなに会心の当たりを打とうがそこに野手が守っていて捕ってしまえばアウトです。
当然、相手のバッテリーも球種別の打率やコース別の打率など、様々なデータを頭に入れています。
それを踏まえ、抑える確率が高いであろう配球をしてきます。
野球の面白いところは、投手がボールを投げる前は確率しかありません。
実際に投球した後には、結果しかありません。
確率の厄介なところは、実際に結果が出てしまうと、確率が意味を持たなくなってしまうということです。
しかし、結果を多く積み上げていくと、そこには再び確率が現れます。
それがシーズンの打率であり、対戦成績です。

確率のスポーツと言われる野球をするには、未来を予測して上手くいく確率の高いプレーを選択することはとても重要なことです。
先に起こることを確率的に捉えながらプレーする必要があります。
しかし、運の要素が多く、相手もいるので、一回一回の結果ではなく、パフォーマンスや長い目で見たトータルの結果でその善し悪しが判断されなければなりません。
判断材料を増やし、トータルで見ることが、運に対処するためには必要なことです。

 

未来をすべて予測することは難しいですが、未来には、予測可能な未来と予測不可能な未来とがあります。
例えば、技術や知識は未来の予測を可能にします。
今回の夏の高校野球の話題を呼んだ、佐々木朗希選手のドラフト1位指名は予測できます。
しかし、クジ引きになった時に、どこの球団がそのクジを引くかは予測できません。
すべてを予測しようという考え方ではなく、予測可能な未来においては、できるだけその精度を高められるように、全力で努力をしていくということです。
能力や技術を向上させることで、活躍できる確率を高めることは可能です。
しかし、相手がいることや運的な部分は予測ができません。
予測できる未来にアプローチせずに、見逃していたのなら、それは改善しておく余地がありますが、運が多く存在する場面では、上手くいかない出来事が起きたときに、いかに冷静に、いかに柔軟に対処できるかということが重要です。

 

すべての予測は、未来に起こることの、当たる保証のない仮説のひとつにすぎないということです。
予測が当たらないことが問題なのではなく、予測できないことに予測することで対処しようという考え方があまり良い考え方とは言えません。
自分自身を磨くことで、未来の可能性を広げようと考えることが、未来の予測の確率を上げることになるのではないかと思います。

スポーツ、身体活動、体育、武道。

スポーツ、身体活動、体育、武道を混合して語られることが多くありますが、実際は、これらはまったく異なる行為です。
今回は、そのスポーツ、身体活動、体育、武道の説明をしていきたいと思います。
目的を考えたら違いが分かると思いますが、スポーツ、身体活動、体育、武道のどれが1番良いのかということは言えません。
すべて、重要な役割を持っていて、それを行う人の価値判断によります。

 

スポーツ(SPORT)
スポーツは、もともと日常生活の労働から離れることを意味していたことからも、自ら楽しむもので、強制されて行うのではなく自らが判断して行うものです。
スポーツとは、難しいものではなく、「遊び」と「真剣さ」のバランスによって成り立つ、「ルールのある遊び」とも言えます。
人間が楽しみを求め、より善く生きるための自発的に行なう身体活動であり、ルールの中で、自由な能力の発揮と挑戦を試み、スポーツパーソンシップに則って行います。

 

身体活動(Physical Activities)
人が安静時よりも多くエネルギーを使う行為を身体活動と言います。
身体活動=運動+生活活動にまとめられます。
運動とは、身体活動のうち、体力の維持・向上を目的として計画的・意図的に実施するものです。
例えば、散歩をしたり、ジョギングをしたり、ジムやフィットネスクラブで行うトレーニングなどが運動です。
当然、野球、サッカー、バスケなどのスポーツも運動と言えます。

生活活動とは、身体活動のうち、運動以外のものを言います。
例えば、掃除機をかける、洗濯物を干す、などの家事。子供と屋外で遊ぶなども生活活動です。
通勤、営業の外回りもそうですが、荷物を運んだり、階段を上り下りしたりもそうです。
農作業、などの仕事上の活動なども生活活動です。

 

体育(Physical Education)
「Physical Education」とは、日本語に訳すと身体教育になります。
身体教育なので、身体を動かしながら、身体的動作や行為、他者との身体的関係性を学ぶことです。
それだけでなく、身体の構造や機能を知るために学ぶことも体育です。
「体育」は、学校教育が中心で行われているので、身体の向上と健康の促進が目的であることは、授業を通じて経験してきていると思います。
体育は心身鍛錬や集団訓練、軍隊教育などのために行われてきたという歴史があります。
軍隊教育では、戦争に勝つために兵士の身体を強くすることが目的で行われていました。
そのため、指導者(上官)が主導権を握り、その指示に従いながら、規律を守り訓練に耐えることが求められていました。

 

武道
「武道は、武士道の伝統に由来する日本で体系化された武技の修錬による心技一如の運動文化で、心技体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、人間形成の道であり、柔道、剣道、弓道、相撲、空手道、合気道、少林寺拳法、なぎなた、銃剣道の総称を言う。」(日本武道協議会より)
つまり、武術・武芸の修業を通じて自制を保ち、欲望や怒り等を消し去り悟りを得ることを目的として行うのが武道です。

 

このように考えると、スポーツ、身体活動、体育、武道は混合されて言われていることが多くありますが、それぞれ違いがあるということがわかると思います。

例えば、自宅周辺をただジョギングすることや野球ボールを持ってただ壁当てを行うことは、身体活動です。
そこから身体の構造や機能、健康概念に基づきジョギングの効果を学び教えることは体育です。
スローイングのメカニックや身体機能を学び、それを踏まえてより速い球やコントロール良くボールを投げることも体育と言えます。
さらに、ジョギングを5km走の競技として発展させルールを創り、より多数の人間がそのゲームに参加し競い合うのがスポーツです。
ただ投げるだけではなく、そこに打者がいて、打たれたボールを守る野手がいて、ルールに則って勝敗を競うのが野球というスポーツになります。
スポーツには他者がいるとも言えます。

 

身体活動も体育もスポーツもどれも重要な役割を持っているということです。
体育とスポーツは異なりますが、体育がいらないというわけではなく、目的としているものが異なるということです。
それぞれの違いを理解し、何を目的にしているのかを考えることで「より善く生きる」ということにつながるのではないかと思います。

ただ、スポーツ、身体活動、体育、武道、どれも共通して言えることは「継続は力なり」ということです。
継続して行うことで、心身ともに変化していき、自分の人生を豊かなものにしていけるのではないかと思います。

成長期の怪我。

現在、僕自身、多くの成長期の選手を指導しています。
早い子では、小学生高学年くらいから一気に身長が伸び始めます。
かなり個人差はありますが、その時期が中学生、高校生の選手もいます。
成長期には、成長痛を含め、怪我のリスクが高くなります。
そんな成長期の障害の話です。

 

僕は、周りの人に比べ、成長が遅かったので、身長が急激に伸びたのは中学生から高校生にかけてでした。
その間に成長痛で苦しんだという記憶はありません。
身長が174センチとあまり高くないので成長痛にならなかったのかもしれません。
鈍感で気がついていないだけかもしれませんが・・・。

急激に身長が伸びると怪我のリスクが高くなります。
なぜかというと、骨と筋肉の成長度合に違いがあるからです。

骨の方が早く伸び、その後に筋肉がそれに追いついていきます。
そのために、骨の長さと筋肉の長さに差が出てしまい、筋肉は普段から引っ張られた状態になります。
筋肉は引っ張られているので、硬くなり、柔軟性が低下します。
そうすると可動域が狭まり、怪我や故障のリスクが高くなります。
それだけでなく、骨自体もまだ未成熟のため、関節付近の骨はまだ軟骨成分が多く、大きな負荷に耐えられません。
競技によって、痛めやすい部分は変わってきますが、どの競技をするのにも注意が必要です。
野球では、肘の故障、肩の故障は多く見られます。
膝や腰、足首を痛めるケースもあります。
骨や筋肉、関節、腱などを痛めやすく、筋肉に骨が引っ張られ、その骨が剥がれ、疲労骨折になってしまうこともあります。

この身長が大きく伸びる成長期は、親や指導者は特に注意が必要で、無理をさせないようにしなければなりません。

僕の感覚では、背の高い選手ほど成長痛になりやすく、痛みを訴えてくることが多いように感じます。
個人差がかなりあるので、練習量や強度を上手くコントロールしながら、個別にメニューを組むことが良いのではないかと思います。
痛みが出ていなくても予防の意識を持ち、ストレッチを多めに行うなどして、成長期に備えることも大切です。
野球は典型的ですが、多くのスポーツが身長の高い方が有利になります。
それなので、身長の伸びが止まるまでは、少しでも身長を伸ばすことができるように努力するべきだと思います。
身体を上に大きくすることは、成長期しかできないことですが、横に大きくすることは、何歳になってからでもできます。
たしかに、野球などのスポーツでは、体重を増やせば、試合で結果を残せる確率は上がると思いますが、優先順位の上にあるのは、身長を伸ばすことだと思います。
体重を増やして、見た目を大きくしても、骨はまだまだ未成熟です。
特に、膝や足首など体重を支えなければならない箇所は、重たい上半身を支えるために、関節痛や疲労骨折を起こす可能性が高まります。

運動、栄養(食事)、休養(睡眠)のバランスを取り、身長を伸ばす努力をするべきというのが僕の考えです。

 

成長期に起こる障害は、気をつけていても完全になくすことは難しいことです。
もし痛みが出てしまった時は、無理をせずに専門家に診察してもらうことが必要です。
実際に、どのような状態になっているのかを知ることで、より適切なリハビリメニューを組むことができます。
どの程度の休養が必要なのか、どの程度の練習までならしていいのか、このようなことは診察を受けなければ、なかなか判断することができません。

無理して練習や試合に出場させるよりかは、今できることを全力でやる方が、選手のためになると思います。
しっかりとした目標を立て、計画的にトレーニングすることで、早く復帰できるようになるだけでなく、再発防止にもなります。
考えればできることはたくさんあります。
自分の身体と向き合いながらできることを全力で行うことは将来必ず役に立ちます。

 

成長期には、怪我のリスクは高まりますが、大きく成長できる時期でもあります。
身体も成長しますが、考え方や精神的にも大きく成長します。
成長期という大切な時期を無駄にしないように、大人がブレーキをかけながら、目先のことだけでなく将来を見据えて過ごしてほしいと思います。

過労。

トレーニングは、日常の身体活動のレベルより大きな負荷の運動をすることによってトレーニング効果が得られます。
しかし、大きな過負荷を続けると同時に、疲労回復に必要な栄養と休養が不十分であった場合には、パフォーマンスやトレーニングの効果が低下してしまいます。

疲労を上手くコントロールできずに過度の疲労である「過労」となってしまう選手がいます。
今回はその「過労」についての話をしたいと思います。

 

成績が残せずに、調子が上がらないのを、コンディションが原因であると考え、調子を上げるためにさらにトレーニングに励んでしまい悪循環に陥っていく選手がいます。
特に、真面目で責任感があり、練習熱心な選手が「もっと頑張らなくては」と自分を追い込んだ結果としてそうなってしまいます。
過剰なトレーニングが長時間続くことによって疲労が徐々に蓄積し、回復できなくなり、疲労が抜けない状態になってしまうと、いつも通りパフォーマンスを発揮できなくなってしまいます。
筋力の低下や持久力の低下はわかりやすいですが、投球時などでは連動性が落ち、出力が低下します。
集中力が低下すればイライラしたり、思考力が落ち、判断力も鈍ります。
そうなるとトレーニングで得られる効果も少なくなります。
身体が疲労すれば障害リスクも上がります。
さらに酷くなれば日常生活でも身体が重く感じたり、食欲が低下したり、体重の減少などが起こります。
不眠や不安、集中力低下などの精神的な症状がでることもあります。

 

毎日頑張って練習やトレーニングを行っているにもかかわらず、効果が上がらない。
それどころか、逆に調子が悪くなってパフォーマンスが低下してしまうという選手をプロ野球の世界でも何人か見てきました。

選手のコンディションを決めるのはトレーニングだけではありません。
トレーニング以外にも食事(栄養)、休養(睡眠)、精神状態、なども影響します。
それらは、他人に管理してもらうことはなかなかできないので、自分で意識してコントロールすることが大切です。
ついついトレーニングに目がいきがちですが、その他の要素にも十分、気を配るようにしなくてはなりません。

そこで、疲労が蓄積し過ぎてパフォーマンスが上がらなくなってしまう要因を考えてみました。
まず考えられることは、トレーニング量が適切ではないということです。
強度と回復期間のバランスが崩れてしまい回復が間に合わないことです。
トレーニング負荷に見合うエネルギーを摂取することができない、休養、睡眠が十分ではないと回復にも影響します。
急激なトレーニング負荷の増加も身体が対応できずに疲弊してしまいます。
練習やトレーニングだけでなく、試合が続いたりすることも、身体の負担になります。
単調なトレーニング内容が続くことも肉体的にも精神的にも疲労しやすくなります。
家族や指導者からの期待や記録への期待などが高くなれば精神的なストレスになります。
競技とは関係のない家族、友達、恋人、などが精神的ストレスとなり疲労となることも考えられます。
仕事や学校などの生活でも疲労は起こります。
風邪をひいている時や体調不良の時では、また違ってきます。
当然、気温が高かったり、湿度が高かったり、環境でも疲労は変わってきます。

このような要因が考えられますが、個人差がかなりあり、同じことをしていても全く問題ない選手もいれば、過度の疲労となってしまう選手もいるということを頭に入れておく必要があります。

 

ちなみに、プロ野球で長く活躍している選手は、これらの負荷に異常に強いということが言えると思います。
練習量も多いですが、食べる量も多い。
単純なトレーニングを毎日続けられ、毎日試合をする体力、精神力を兼ね備えています。
プレッシャーを力に変える能力も持っています。
だから、僕はプロ野球選手を例外と考えることが妥当だと思っています。

とはいうものの、同じ人間であるので近づくことは可能だと思います。
例えば、自分自身を良く知るために練習日記やパフォーマンスの記録をつける。
そうすることで、練習やトレーニング内容をより適切に設定でき、練習量をコントロールしやすくもなります。
自分を客観視できるようになれば、その日のコンディションを自覚でき、精神の緊張とリラックスのバランスを保つことにもつながります。
もっと細かく、食事や水分摂取を把握することで、エネルギーや炭水化物、たんぱく質などの栄養を適正量摂取できるようになっていきます。
睡眠の質や量もコントロールできます。

これらを習慣にできれば、疲労と上手く向き合える選手に近づきます。
疲労を上手く使うことで、身体も精神も成長させることができます。
そのためには自分にとってどこまでが適正な疲労で、どこからが過度の疲労である過労になるのかを把握する必要があります。

 

普段から自分の体調をチェックする習慣を持ち、どこからが休み過ぎなのか、あるいは休みが少なすぎるのか。
どれだけ追い込んだら負荷のかけ過ぎなのか、あるいは足りないのか。

自分自身の能力や経験、体調、あるいは天候などを考慮し、自分で適正な負荷を決めていけるようになることも磨かなければならない能力だと思います。

疲労って何?

人は生きていく中でどう疲労と付き合っていくのかは重要なことです。
しかし、その疲労とは、とても奥が深くまだまだ分からないことだらけです。
一昔前には、疲労とは乳酸が溜まることであり、疲労回復とは乳酸が減ることであると言われていました。
ランニングメニューをしたりウエートトレーニングをしたときに「疲れた。乳酸が溜まった!」と言ってきましたが、近年では、乳酸が疲労の原因ではないと言われています。
今は、乳酸は疲労を起こすどころか、疲労を抑制する働きがあると言われています。
そんな疲労の話をしてみたいと思います。

 

何をすると疲労をもたらすのか?
疲労度を左右する要因は何なのか?
僕の知る限り、疲労を正確に測ることはできていません。
疲労は多くの場合、複合的な要因で起こります。
運動内容や活動時間、暑さや寒さなどで変わってきます。
性別、年齢、睡眠や食事などの生活習慣、健康状態、などでも疲労度に影響を与えます。

一概に、身体をたくさん動かしているから疲労度が高いというわけではありません。
逆に、身体を多く動かしている人ほど疲労が低く、身体をあまり動かしていない人ほど疲労が高いというのが僕の感覚です。
プロスポーツ選手よりも、サラリーマンの方が疲労しているように感じます。
これは人によって感覚は違うと思いますが、そのくらい疲労を判断することは難しいことだと思っています。

疲労には、筋肉が疲労するような肉体的な疲労と、脳が疲労するような精神的な疲労があります。
肉体的な疲労は、身体活動で求められるエネルギーとそれをこなせる体力のバランスによって生じます。
僕は現在、トレーニングや投球練習をまったくしていないので、少し投げただけでかなりの筋肉痛になってしまいます。
現役時代には、筋肉痛にならないレベルの運動でも今は筋肉痛になってしまいます。
このような筋肉の疲労はトレーニングや投球練習を行い、体力が増せば疲労は生じにくくなります。

精神的な疲労とは、人間関係や悩みなどの心理的ストレスによって起こります。
精神的に緊張状態を強いられる環境にいることで疲労を感じます。
自律神経のバランスが乱れることでも起こります。
例えば、忙しすぎて気が休まらないといった量が多い場合やミスできない、よく考えないとできない、といった質が高い場合などでも疲労が溜まっていきます。
自分の思い通りにならないような我慢がストレスとなり疲労を感じるようになることもあります。

 

運動や睡眠不足やストレスなどで心身に負担がかかった結果として起こる疲れですが、「疲労」と「疲労感」は違ったりもします。
好きなことをしていたり、成果が出ていたり上手くいっている場合など、頑張って活動してもあまり疲れを感じないことがあります。
夢中になって遊んでいるときや、夢中になって練習しているときはあまり疲れを感じない経験があると思います。
ランニングメニューなどで、多くの選手がゴール前のラストスパート時では多少疲労していてもスピードアップできます。
ゴールを脳が認識することで走るスピードを上げられることから、疲労を感じていても身体が疲労しきっているわけではないということが言えると思います。
このように、「疲労」と「疲労感」が一致しているとは言えない場合もあります。
その時の気持ちや報酬、達成感や集中状態などにより疲労感は変わります。
疲労を感じず活動を継続してしまい、その結果、気がつかない間に、疲れが蓄積し、怪我や故障につながってしまうことがあります。
特に子供は、疲労を上手く言葉にできないので注意が必要になります。
疲労は本人が自覚するかどうかという主観的な問題だけでないことも知っておかなければなりません。

 

「疲労」は超回復を使って、身体を成長させたり、爽快感を得たりと悪いものだけではありません。
心身を休めるようにという自分の身体や脳からのメッセージであり、人間が生き抜いていくために備えている、過度の活動を防ぐ心身の防御機能とも言えます。

疲労と上手く向き合い、どこまでいったら過労なのかを判断することは重要なことです。
「疲労」と過度の疲労である「過労」の境界線は曖昧です。
人によって大きく異なるとも言えると思います。

少なくとも過労を生じることのないように気をつけなければなりません。
過労は、疲労骨折を招いたり、怪我や故障につながります。
精神的な疲労が酷くなれば、うつ症状や引きこもり、過労死につながります。

 

大人や指導者が知っておかなければならないことは、疲労の原因は様々あって、多くの要因がある。疲労は複合的な現象であり、個人差があるということです。
そして、疲労についてわかっていないことが様々あります。
今後、テクノロジーの進化によりいろいろ解明されていくとは思いますが、疲労をどのように見るのかはとても重要なことだと思います。

他者からの評価。

他者からの評価というのは、1度失ってしまうと取り戻すことが大変です。
評価を上げることは、一歩一歩なのに対して、評価を下げるのは一瞬です。

第一印象でネガティブな印象を与えてしまっても同じです。
そんな他者評価の話です。

 

他人の評価に振り回されて生きていく必要はありませんが、他人からの評価が低かったり、他人から信用されないのは、良いことではありません。
他人から好かれようと生きていく必要はありませんが、他人から嫌われるようなことは避けるべきだと思います。
他人の評価を上げようと毎日を過ごす必要はありませんが、他人からの評価を落とすような言動は避けるべきだと思います。
人に嫌われて得はありませんし、他人からの評価を下げていいことはありません。

その場、その瞬間での言動の大切さを軽視する、もしくは考えないのは、改めるべきです。
なぜなら、築き上げてきた信用が壊れたり、信頼されなくなるのは、とても簡単だからです。
ひとつの行動やひとつの発言によって、一瞬にして失われてしまいます。
たった1度の失敗で全てが崩れてしまうこともありますし、ちょっとした気の緩みによって今まで積み上げてきたものが崩れてしまうこともあります。
不祥事や失言、ついてはいけない嘘をついたり、約束を守らなかったり、などで、すべてを失うこともあります。
すべてを失うというところまでいかなくても、その一瞬があったがために、後々に響いていくこともあります。

イライラして自制を保てなかった瞬間にした行動により、評価を落とすことも考えられます。
ミスをしてしまったときに、照れ隠しの言動や言い訳をすることで評価を落とすこともあります。
独りよがりのプライドや必要のないプライドにより評価を落とすこともあります。

一瞬の行動や一言を誤ってはならないということです。

1度信用を失い、不信感を抱いた相手にまた信用してもらうには大変な時間と労力がいります。
自分が不信感を抱いた相手をまた信用するのが、どのくらい難しことかを考えれば分かると思います。

人は信用を失うと、その後、相手は否定の目で見るようになります。
裏切られた人を見ていたとしたら「また裏切るのではないか」という目で見るので、日々評価が下がっていきます。

失った信用は継続的に時間をかけないと取り戻せません。
その人に対して常に誠実に接する事ができて、初めて回復していきます。
継続を辞めれば「やっぱり」となり、その時点で振り出しに戻ります。
このように、失った信用を取り戻すのは、簡単なことではありません。

 

信用を取り戻すために必要なことは、今の現状を受け入れ、言い訳をせずに自分ができることに集中し、今まで以上に自分に厳しく生きていくことです。
可能な限りコツコツと地道に積み上げていくしかありません。
そしてしっかり反省して行動で示すことです。
自分に厳しく、同じ過ちを繰り返さないことです。

1度下げてしまった評価を取り戻せるかどうかというのは他人の評価なので自分で決められるものではありません。
しかし、その後の自分の行動によって、その後の評価が変わってきます。
失敗したりしても腐らずに、しっかり反省して自分に出来ることを精一杯することが何よりも大切なことです。
自分自身がブレる事なく行動していくことです。

信用を取り戻すことは本当に大変です。
常にブレがなく続けていくことで少しづつ取り戻していけます。
ひたむきな行動と素直な心が大切になってきます。
日々の積み重ねが自分自身の成長につながり、成長することで他者からの評価も上がっていきます。

 

誰でもミスはありますし、上手くいかないこともあります。
大切なことは、それを受け入れ、しっかりと反省する心を持つことです。
そしてどんな状況になろうとも、それを乗り越えるくらいの努力と行動をすることです。
日々の努力の積み重ねが、気がつけば周りの評価を上げていくことになるのではないでしょうか。

規律正しい生活。

前回の投稿で「自由と規律。」の話をしました。
規律を持つことは重要だということを言いました。
今回はその規律をもう少し詳しく話していきます。

 

プロ野球の世界にいて感じたことは、プロ野球選手になるような選手や野球が上手くなるには「規律正しい人」で「規律正しい生活」を送れる人にならなければいけないと思われていますが、そうではないということです。
たしかに活躍する人は規律正しい人であってほしいというのはわかりますが、実際には、規律正しくなくてもプロ野球選手になり、活躍している選手もいます。
しかし、そのような選手でも、自分がやると決めたことは徹底して守ります。

それを踏まえて、僕が重要だと思うのは、世間一般に言われるような規律正しい生活を身につけることではなく、自分にとって適切な規律を身につけるということです。
これはプロ野球選手を目指す人だけでなく、むしろ、これから社会に出ていく人にも必要だと思っています。
自分が成長するために必要な習慣を作るための規律を持つことが重要です。
規律正しい人になるためではなく、成功に必要な習慣を見極め、その習慣を身につけるために必要な規律を自ら選んで実践していくことです。
トップ選手は自分を律することができ、自分にとって必要だと思う練習やトレーニングを毎日続けることができます。
それは習慣になっているからです。
習慣は努力を努力と思わなくなり、辛いことを楽にしてくれます。

僕自身の幼少期を思い出してみると、小学生の時に「野球が上手くなるために時間を使う」という自分自身に作った規律に全力を注ぎ、それが毎日練習するという習慣になり、その後の生活をシンプルにし、すべての生活が楽にできるようになっていきました。
たったひとつの「野球が上手くなるために時間を使う」という規律が充実した日々をもたらし、現在の人生を作っていったと言えると思います。
人生の核になるような習慣を小学生の時に身につけることができたことは、とても運がよかったと言えます。
良い習慣を作るために規律を作るということを理解できたことは、現在までの成長に役立っているのではないかと思います。

 

重要なのは、他人から与えられた規律ではなく、自分で作る自己規律を身につけることです。
鍛えれば身につけることができ、自己規律を守れば、自信になり、目標達成に近づき、充実感や達成感を得ることができます。
さらに、時間ができるようになるので、より多くのことができるようになります。

目的を持ち、自己規律を持つことで、今だけを考えて行動するのではなく、将来を見据えて行動できます。
意志の強さや努力は、限度があり、それを頼りにするのには限界があると思っています。
意志の強さや努力は、習慣を作るために必要になりますが、習慣さえ作ればそれほど必要ありません。
成長する人を見ていると、重要なのは行動ではなく習慣だと感じます。

明確な目的・目標を持ちひとつずつ達成していくことで、成長していきます。
その方向が的確なら、努力すれば目標に近づくということになるはずです。

 

規律正しい人にならなくても良い、規律正しい生活をする必要がないと言っているわけではありません。
目指すべきは規律正しい人ではなく、日常生活や社会で役立つものを見極め、身につけることができる人だと思っています。
規律正しい生活が必要だと思えばそれができる人です。
規律で重要なことは、自分で決めた規律であり、自分との約束です。
これが徹底できれば、自分が必要だと思う規律は守ることができるからです。

必要なのは、良い習慣を身につけるための規律です。
人は良い習慣も悪い習慣も持っています。
優秀な人とは、自分にとっては何が良い習慣なのかを見極めて、その良い習慣を多く持っている人とも言えると思います。
自分で規律を作り良い習慣を作っていくことが、目標を達成する近道です。

自由と規律のバランスを理解し、自分自身を育てていきましょう。

自由と規律。

昔に比べて最近は怒られることが少なくなってきています。
だからと言い、何をしてもいいわけではありません。
いつの時代もダメなものはダメであり、怒られないからと言って、してはいけないことが少なくなったわけではありません。

一昔前は、ダメなことをすれば、殴られたり、怒られたりしていました。
今、同じようなやり方をすれば、問題になってしまいます。
しかし、殴られないからといい、何をしてもいいというようになったわけではありません。
むしろ、より規律が必要になったといえるのではないかと思います。

 

運動部では、長時間練習が良くないと言われ、練習時間が短くなってきています。
ここで重要になってくるのが、練習の質であり、練習が短くなったことで生まれる、自分の時間の使い方です。

「好きにしていいよ」と言われて、自分を成長させれるように行動し、パフォーマンスがさらに向上する人がいます。
その一方で、自分がやるべきことができずに、生活が乱れて、なかなか成長できない人がいます。

この違いは、単純に自分の中に「規律」があるかないかの違いです。
規律がある人は、自分の中にルールを設定しています。
だから、誰も見ていなくても、どれだけ権力が与えられても、自分の決めたルールを守ることができます。
しかし、規律がない人は、自由になった途端に崩れてしまいます。
ひとりの時の自分が、本当の自分であり、誰からも見られていないところでいかに自分を磨いていけるのかが重要です。

 

自由と規律のバランスを理解し、実行できる選手に育てていくことは、僕の目指しているところのひとつでもあります。
そのために、僕が教えている選手によく言うことが「自分との約束を守ろう」ということです。
自分がやると決めたこと、または、やらないと決めたことを守ることができるようにすることは、自分を成長させるためにも、他人から信頼されるためにもとても重要なことです。

個人の成長だけでなく、自由と規律のバランスを理解した選手を増やすことが、チームワークを高めることにつながると考えています。
自由を尊重して、その中でも、自分をコントロールして責任のある行動を心掛けます。
その責任のある行動を決める基準は「スポーツパーソンシップ」にあります。
自制を保ち、周りを思いやる。ルールを守る。そしてお互いに成長を目指す。
この基準で行動することが自由と規律のバランスを保つことになります。

子供たちには、自分の発言や行動が、結果として他の選手たちの「自由」を阻害してしまうことがよくあります。
チームでは、お互いの自由を尊重するため、規律が必要です。
なぜ規律があるのかというと、お互いを思いやり、お互いに成長を目指すためであり、自由を作るためということになります。

 

それを理解し、自分で自分の規律を作ることができれば、
時間を守る。
身だしなみを整える。
あいさつをする。
人や道具を大切にする。
マナーを守る。
などといったことの本質を理解できるのではないかと思います。
これを、怒られるからやる。ガミガミ言われるからやるでは、自立(自律)した選手になったとは言えないと思います。
人権を無視するような、暴力や罵声ではなく、時間はかかるかもしれませんが、辛抱強く自由と規律の重要性を理解させていくことが大切です。
ルールで縛るのではなく、最低限のルールで組織を円滑に運営し、発展させていくことが理想的です。
そのためには、個人個人が自分のルールを決め、守っていくことが必要です。
簡単に身につけられるわけではないので、指導者や大人が自己規律を自らの背中で見せることで、選手、子供が自ら学習し、自律的な子供を育てることにつながると思います。

 

自由や自主性と言われますが、自由をはき違えて、マナーやモラルがない人に何も言わずに放っておくというのは、違います。
それを、暴力や罵声というやり方ではなく、指導者の指導力によって、理解させなければなりません。
つまりは、指導者は、今まで以上に指導力が求められ、指導者自身が成長していくことで、子供の成長を促していくことが、必要になってきているのではないでしょうか。

これからの時代の人の評価は、今まで以上に、年齢や学歴や国籍などよりも、人間性という物差しで評価されるのではないかと思います。
スポーツを通じて、評価される人間を育てていくことはスポーツの発展においても重要になってくると思います。

価値観。

物事の考え方は様々あります。
物事をどのような視点から見るかで大きく変わってきます。
しかし、自分の価値観でしか物事を見ることができなければ見えないものがたくさんあります。
物事を多方面から見て考えるということで今まで見えなかったことが見えてくることがあります。

 

昔、暗記をするときに、緑のマーカーペンと赤い下敷きを使って勉強していました。
暗記したい単語を緑のマーカーで塗ってそれを赤い下敷きを使って見ると単語が黒く塗りつぶされ見えなくなるという仕組みです。
または、オレンジのペンで文字を書くとその文字自体が消えて見えなくなります。

何が言いたいかというと、赤い下敷きというフィルターを通して物事を見ていると緑で塗りつぶされたものは理解できないということです。
さらには、オレンジで書かれたことは、書かれていることすら気がつかないということです。
それを見るためには赤い下敷きを緑の下敷きや違う色の下敷きに変えなければなりません。
自分の価値観というフィルターでしか物事を見ることができないと、ほかの人の価値観が全く理解できずに衝突してしまいます。
物事を違う角度から見ることをしないと入ってこない情報もあります。
自分のフィルターを通して物事を判断しているという認識を持つ必要があります。
他の人の意見を聞くときに、自分のフィルターだけで聞くのではなく、物事を俯瞰し、異なる立場や方向から判断することが重要です。

今話題となっている高校野球の投げさせるべきか、投げさせないべきかの問題もそうです。
観る人の立場から考えれば、多くの人が160キロを超えるような高校生を見たいと思います。
選手の身体を守るという視点から考えれば、まだ大人の身体になっていない選手に登板間隔が少ない中で多くの球数を投げさせるべきではないという考え方になります。
学校の経営という視点から考えると、とにかく甲子園に出て、名前を売ってくれということになります。
メディアにしてみれば、話題性も抜群で注目度もあるので、毎試合出て、勝ち上がってほしいと考えると思います。

この間に立たされている監督はとても難しい判断をしなければならないので本当に大変です。
どんな判断をくだそうとも批判を避けられないのではないかと思います。
そういう意味では、監督を守る意味でも何かしらのルールを作る必要があるのかもしれません。

 

「価値観」は、育った環境や社会環境によって大きく変わってきます。
時代によってもどんどん変わってきます。
その時代時代で、なにが良くてなにが悪いのかという基準は大きく違うこともあります。
長時間働くことが求められていた時代もありましたが、今は短時間で効率的に働くことが求められています。
同じ人でも価値観は変わるということです。

そんな中でも、物事を判断し行動していかなければなりません。
その基準になるものは、根本にある本質的な目的ではないかと思います。
様々な価値観を持った人が集まった時に、目指すべきところを共通認識することが必要です。
ここが曖昧ではなかなか意見をまとめることは難しいと思います。

高校野球を例に出して言えば、「教育を受ける権利」を前提とする「教育の一環」であり「野球はスポーツである」ということから考えるということです。

 

違う価値観というのは自分にとって新しい考え方です。
価値観が違う人との出会いは、新しい物事の見方に気がつくきっかけになります。
同じような価値観を持った人といる方が楽で居心地がいいかもしてませんが、様々な価値観に触れることで自分自身をより成長させることができます。
時代が変化するスピードが加速度的に早くなっている現代において、多くの色のフィルターを持つことが、考え方が多様化している今の時代を生きる上で必要になってくるのではないかと思います。

目指すべき選手。

僕が子供たちを指導するときに心掛けていることです。
どのような人になってほしいのかという理想を常に頭に置いて子供たちに携わっています。
決して目先の結果だけにとらわれないように意識しています。
そんな話をしていきたいと思います。

 

僕が目指している理想の選手とは「勝手に自分自身で上手くなっていく選手」です。
自分で自分の人生を切り開く力をつけてほしいと願っています。
この力が低いと何かに依存するという状態になりやすくなってしまいます。
依存とは、他のものに頼って成立・存在することを言います。
ギャンブルやお酒、たばこ、薬物、人への依存もあります。
ギャンブルやお酒、たばこ、薬物、などの依存は説明するまでもないと思いますが、人への依存には、常に相手にしがみついたり、相手を支配したり、束縛することで安心や満足を得ようとします。
このような依存の原因として、自分で自分の人生を生きるという感覚が損なわれてしまうことがあると思います。
ギャンブルやお酒、たばこ、などは「どのような危険があるのか」「どのくらいの量なら問題ないのか」といったことが理解していて、実行できることが重要です。

コーチに依存していたり、親に依存しているのは、良いことではありません。
これを作り出しているのは、コーチであり、親です。
いつまでも、親やコーチに「こうやりなさい」「これをしなさい」と課題を与えられていては、考える力が身についていきません。
大人は子供に簡単に答えを教えるのではなく、子供が自分で考え、時には質問し、話し合い、自分で決断し行動していくことが重要です。
小さな頃からの小さな決断の習慣の積み重ねがどんな状況下でも、自分の意思、判断で行動し、その自分の行動の根拠を説明できる人に育っていきます。
子供が自分で課題を見つけ、考え、話し合い、自分で選択して、自分なりの解決をしていく、というサイクルを支えていくのが大人の役割です。

これは、決して、大人は子供に任せっぱなしで、大人は何もできないということではありません。
子供を放置しておくということでもありません。
子供の話をよく聞き気持ちを考え、よく話し合うことが大切です。
悪いことは悪いとはっきり伝え、ダメなものはダメと言わなければなりません。
その時に大人としての意見を言う必要があります。
ただし「あなたはどう思う?」と聞くことは忘れてはいけません。
決定は本人がすることが重要だと思っています。
自分で自分の人生をコントロールできているという感覚を身につけることは必要なことです。

 

僕が見ているのは今だけではありません。
決して小学生を今、良い子に育てることではなく、中学生を完成された中学生として良い子に育てることではないと思っています。
今、良い子だからといい、将来、幸せになれるわけではないからです。
その代わりに、選手が30歳、50歳、70歳、となった時に、幸福に生きていける力を身につけられるように接していきます。
選手が幸福な人生を生きていくことができるような人間に育てることを目指します。

大人は、子供に安心感、安全感を持ってもらうことや、必要とされている、愛されているという感覚を与えることが何よりも大事だと思っています。
親や指導者から必要とされるため、愛されるためにいつも気を使い、ビクビクしながら育てば、育ちに悪影響を及ぼすことになります。

例え失敗しても「失敗はするもの、しても何とかなるものだ」というのを子供の頃から身につけていくことは重要です。
失敗の1つや2つ何とかなるという安心感、安全感を育てることでチャレンジ精神を育むことにつながります。
選手が何かミスや大失敗をしてしまったときに、隠される人ではなく、1番に話をされる存在でありたいと思っています。
選手が上手くいっているときよりも上手くいかずに悩んでいるときこそ、指導者の資質が試されると思っています。

 

人生というのは自分で決めて自分で実行するしかないものです。
だから、育成とは、選手を上手くすることではなく、自分自身で上手くなれる選手にする手助けをすることだと思っています。
何かに振り回されるのではなく、周りのものを上手く使ったり、自分自身をコントロールできるようにしていきます。

自分で課題を見つけ、自分でどんどん成長していく。
自分で自分の人生を切り開いていく。
そして、自分の人生を自分自身で幸福にしていく。

このような生きる力を「スポーツセンシング」と言っていますが、人が成長するための本質的な能力を育んでいくことが選手の育成において重要なのではないかと思います。

忍耐力を発揮しない。

忍耐力とは「辛いことや苦しみなどを耐え忍ぶ力。辛抱する力。」のことを言います。
時と場合によるとは思いますが、忍耐力を発揮しないことで上手くいくと思うことが多々あります。
そんな話をしたいと思います。

 

忍耐力が成長を阻害していると思う選手を何人も見てきました。
忍耐とは同じところでとどまることです。
例えば、寒さに耐える。暑さを我慢する。といったように苦しみなどを耐え忍ぶ力のことです。
現状を改善しようと前向きに行動することは忍耐ではなく努力と言います。

肉体的に限界を超えた我慢や忍耐は身体を傷つけ、酷くなれば故障に繋がります。
精神的に度量を越えたパワハラなどの我慢や忍耐は心がすり減り崩壊します。
酷くなれば引きこもりやうつ症状になることすらもあります。

このような過度の肉体的、精神的ストレスに忍耐力を発揮する必要はありません。
耐え忍ぶことを美徳だと勘違いし、理不尽なことや嫌なことに我慢し続けることは良いことだとは思いません。
指導者や大人が子供に対して、本人が嫌なものを無理矢理継続させようとしたところで、そこに集中力は生まれません。
集中して物事に取り組むことができなければ、期待しているほど、子供の力を伸ばすことはできないと思います。

たしかに、嫌なことを我慢しなくてはいけない場面はあるとは思いますが、ずっと我慢を続けていたら、人間の心と身体はすり減っていってしまいます。
それを防ぐためには、ただ我慢し続け、耐えるのではなくて、回避する方法を考えたり、現状から抜け出す努力をしていくことです。

僕が感じたトップ選手が持つ能力は、嫌なことや辛いことを我慢し続ける忍耐力ではなく、それをどうやれば成長につなげられるのかを考える力であり、自分の夢や目標に向かって努力する力です。
目標を実現するためのチャレンジする力と粘り強く継続していく力を持っています。
ここに忍耐力はありません。

本人に話を聞くと、努力をしているという感覚よりも、好きで楽しいから、他人からやり過ぎるなと言われても勝手に好きでやってしまうというように感じます。
心の底から好きなことは楽しいから続くのであって、完全に習慣化できているので、努力して続けているわけではありません。
表現は難しいですが、トップ選手は忍耐も努力もしていません。(している感覚はありません。)

 

指導者は忍耐力を育むことや物事を継続させようとしますが、僕はそれはそこまで重要だとは思っていません。
それよりも、競技を好きにさせることや、好奇心や創造力、そこにチャレンジする能力のほうが重要だと思っています。
そうすると結果的に辛いことやハードなトレーニングを継続できるようになっていきます。

上のレベルになればなるほど、現状を大きく変えることは簡単なことではありません。
だからこそ、どうすれば現状を変えることができるのかを試行錯誤しながら、何度も粘り強くチャレンジする必要があるはずです。
その場で耐え忍ぶ忍耐力ではなく、自分を成長させるために何度もチャレンジし続けられる力が必要です。

 

場面によっては忍耐力が必要ないと思うこともあります。
忍耐力がないが故に、自分ができないことがあることに耐えられないのでできるまで練習するということができます。
下手に忍耐力があると、できない自分に耐えられてしまうので忍耐力が成長を阻害してしまいます。

僕は、忍耐することがとにかくできません。
嫌なことに耐えることが苦痛です。
小さな頃から、勝負に負けることに我慢ならなかったので、負けないようにいつも考えていました。
負けることに耐えられないので練習を繰り返していました。

嫌なことが目の前にあり続けていたり、何度も起こっていたら、忍耐力を使わないことが物事を良い方向に持っていけると思います。
嫌なことを我慢するのではなくそれを回避するために行動することが重要です。

何かを成し遂げるのに必要なのは忍耐力ではなく努力です。
努力を続けることです。

努力をすれば成長できるという成功体験を多く経験することができれば、成長するために、努力することができるようになってきます。
これを続けて、努力することを習慣化できれば、努力ではなく習慣になります。
習慣化されれば頑張る必要もなくなり、自然と練習ができます。

 

なかなか、わかりにくい表現になってしまいましたが、仮に、忍耐力が必要だというのなら、自分の目標に向かう過程に忍耐があるのだと思います。
忍耐力をつけるのではなく、学びの過程に忍耐があるということです。
物事を耐え忍ぶ力よりも、現状を切り開く力を身につけてほしいと思います。

大人の熱心さが子供の成長を止める。

僕が子供たちの指導をする上で、どのように考えているのかを書いてみました。
先ず、根本にあることは「子供の才能を潰してはいけない」ということです。
子供ひとりひとりを大切にし、どう才能を伸ばしていくのかと考えれば、行動は決まってきます。
何か参考になることがあればと思います。

 

いつも考えていることは、子供を変えようとするのではなく、子供を変えるために自分がどう変わるかということです。
子供を変えようと大人が熱心になりすぎることで、才能が潰れていくのをたくさん見てきました。
子供に合わせることをせずに、「自分のやり方はこうだから従え」というやり方では、多くの選手は伸びません。
子供のためを思い「勉強しろ」「練習しろ」「真面目にやれ」などと言いうことにより、伸びない子供に変えていってしまってると感じることが多々あります。

多くの選手が練習や課題は、指導者に用意して貰って、与えられてやるものだと思い込んでいます。
それは、大人によって思い込まされているとも言えると思います。
少なくとも、僕の見てきたトッププレーヤーにこのような考えの選手はひとりもいませんでした。
課題は自分で見つけて、それに対して練習します。
自分の理想とする選手に近づけるよう考えるということです。

僕は「教えたことは身につかない」と思っています。
教えたことが身につくのなら、みんなテストで高得点を取れるし、みんなプロ野球選手のように上手くなれるはずです。
いつもフォアボールを出すなと教えられている野球のピッチャーがフォアボールを出すようなことはなくなるはずです。
しかし、現実はそうなっていません。
多くの指導者が、自分が教えられて身につかなかったことを体験していながら、子供たちに同じことをしています。

僕は、選手に技術を教えて上手くさせようとすることは選手のためにならないと思っています。
指導者が選手を上手くするのではなく、勝手に上手くなる選手にどう変えてあげられるのかを考えるのが指導者だと思っています。

本人が「どうしたら身につくのか」「どうしたら上手くなるのか」考えなければ身につきません。
重要なことは考える習慣を作ることです。
早く結果を出させようと、考える時間を削り、答えを教えていくことで、考える習慣が失われていきます。
そうすることで知らず知らずのうちに子供の才能が潰されていきます。

正しいことを教えることで成長するという考え方は、勉強や練習の本質ではなく「自分はこう考える」や「自分はこう感じる」「こうやってみよう」というように、あくまで自分で決め、行動に移すことが重要だと思います。
自ら学びたいと思い、学び続けることが成長に繋がります。
スポーツを通じて主体的に学び、自分で考えることが好きになれば、その先の将来にも役に立つと思います。
「今結果を出すことだけに関心を置く」「試合での勝利にこだわりすぎる」「大人主導の練習をする」「練習を多くやらせる」「上手ければなんでもいい」などの考え方では、子供の才能を引き出せません。

野球やスポーツや勉強自体を好きだったり、考えることや学びが好きになった上で次のカテゴリーに進むのと、もう野球やスポーツは嫌だな、勉強は嫌だな、というふうに感じて次のカテゴリーに進むのでは、その後、大きな差になることは想像できます。

 

大人や指導者に求められることは、完全な人間はいないという大前提の上で、子供の存在自体を認めるということです。
子供はみんな未熟です。
どんな子供にも居場所が必ずあるということを本人に理解させることをしなければなりません。
どんなに野球が下手だろうと、どんなミスをしようと、どんなに悪いことをしようと、その中でも、子供が持っている輝ける部分を見つけてあげることが指導者だと思っています。

そもそも大人ですら完璧な大人はいないわけで、子供の未熟さにイラッとしてしまう時点で、大人が自分はまだまだ未熟であると思うべきです。
大人が子供にイラッとするというのは、大人自身に弱さがあるからであり、自分の我慢強さが足らないことや自分の思い通りにならないことで怒りを生んでいることを正当化してはいけません。
大人自身が自分の弱さを認めることができれば、子どもの未熟なところにいちいちイライラしなくなります。
逆に言えば、子供の未熟さにイライラしてしまうということは、大人自身が自分の未熟な部分を直視できていないということです。
自分が未熟なのに子供にだけそれを直させようと考えるのは、難しい話です。
子供と一緒に成長していくということが大切な心構えだと思います。

 

つまりは、子供を成長させたければ、自分自身を成長させなければならないということです。
自分のやりやすいように管理するよりも、突拍子もないことをする子供に接する方が、自分自身の引き出しも増え、より成長できます。
それが、子供の才能を潰さないことにつながるのではないかと思います。
子供を育てているようで子供に育てられている。
この関係が重要なのではないかと思います。

選手を育てる指導者。

選手を育てるということは簡単ではありません。
選手によってやり方を変えていくことが重要になりますが、多くの引き出しを持っていることが多くの選手を育てていくことに繋がります。
選択肢のひとつとして参考になればと思います。

 

今回紹介するやり方は、指導者が一歩下がって、選手の成長を促すというやり方です。
今までの多くの指導者が、自分が選手よりも上に立っているという認識のもとで、自分が持つ地位や権力を使って選手を指導しています。
そうではなく、指導者がひとつ下がった視点から選手を目標に近づける手助けをするというやり方です。
指導者が選手を後ろから支えるイメージです。
そうすることで、指導者と選手の間に信頼関係が生まれ、結果的に選手を導いていきます。
指導者は「先ず選手に尽くした後に、導く」ということです。

先ず指導者が考えることは、選手に対するリスペクトであり、思いやりを持ち、選手に尽くすということです。
指導者は選手の成功と成長のために尽くすということなので、指導者にカリスマ性はいりません。

選手の成長を支援し続けるということなので、選手が成長し続けるにはどうしたら良いのかを考えます。
決して自分のエゴや自分の地位を守るために選手を使うということはありません。
スポーツでは、相手がいることなので、勝利や個人の成績を自分自身でコントロールすることはできません。
それなので当然、指導者がコントロールすることもできません。
できるのは、成長できる環境を整え、成長を促すことだけです。
選手の成功と成長のために尽くすということは、選手が結果を出せない時でも、諦めずに我慢強く支援し続け、導いていかなければなりません。
そのやり方も、自分の知識や経験で選手を動かそうとするのではなく、選手を尊重する姿勢や選手の意見を聞き、そこから勉強し、共に成長していくという姿勢を見せることで選手からの信頼を得て、選手の行動変容に繋げていきます。
選手の意見を聞くというのは、相手が「どうなりたいのか」なった後に「何がしたいのか」を聞き出す努力をし、どうすれば役に立てるのかを考えます。
選手の立場に立って選手の気持ちを理解するよう努めます。
何かを強制してやらせるのではなくコミュニケーションを通じて、選手に納得してもらい、選手が主体的に行動できるようにします。

 

選手の話を聞くということは簡単なことではありませんが、選手自身が尊重されている、親身になって話を聞いてもらえると思えば、より信頼感を持ってもらえます。
大切にしてくれていると感じ、信頼感が上がれば、コミュニケーションの質が高くなり、より指導のレベルも上がっていきます。

選手が指導者に威圧感や恐怖感を感じれば、言ったことに表面的には従いますが、本音で従っているのかは分かりません。
それが進めば、選手は言い訳を考えたり、自分の意志で行動できなくなってしまったり、考える力が奪われてしまいます。
そうなってしまっては、誰のために指導しているのかがわからなくなってしまいます。

 

指導者が選手を後ろから支えるような、ひとつ下がった視点から選手を目標に近づける手助けをするというやり方のメリットは、選手は指導者を信頼し、自発的に考えて、行動していきます。
指導者側から選手を尊重し、選手それぞれがチームで最も価値のある存在だと伝え続け、選手のために尽くしていくことで、信頼を得て、結果的には選手を導いていくことに繋がります。

このようなやり方は、人の価値を優先するため、選手それぞれに寄り添い、成長のために共に努力をします。
選手個々の能力を伸ばすことに適しているので、より多くの選手を成長させることができます。

その中でもこのやり方で僕が感じる1番のメリットは、チームワークが高まることです。
成長するという目標は全選手に当てはまるので、全員を同じ方向に向けることができます。
僕の経験上「優勝する」などの目標では、ベンチ入りできない選手や怪我をしている選手を同じ方向に向けるのは難しいことです。
どうしても選手の中でも温度差が生まれてしまいます。

 

今回紹介したやり方は、個人の成長が促され、チームワークが高まるので、結果的に勝利にも近づくのではないかと思います。
これを実行するには、指導者の我慢強さや器の大きさが必要になりますが、選手のためになるやり方ではないかと思います。

選手を成長させる方法のひとつとして参考になればと思います。

子供を育てるには。

他人を育てるということはとても難しいことです。
正解がなく、同じことをしても同じようには育っていきません。
ここで書くことも、あくまで選択肢のひとつで、絶対ではありませんが、何かヒントになることがあればと思います。

 

他人を育てるのに「これが正解」というものはなかなか示せませんが、「これはしてはいけない」ということはあると思います。
簡単にいえば、倫理的に問題のあるやり方を使って、相手の成長を促そうとすることです。
例えば、そのひとつに暴力があります。
暴力を振るうにも理由があります。

自分のストレスを他人にぶつけるということもあります。
部活動でよく聞く話で、「今日は指導者の機嫌が悪いから気をつけろ」というやつです。
他で作ったストレスを関係のないところでぶつけるということです。
その時の機嫌なので、同じことをしているのに怒られる時もあれば平気な時もあります。

相手を支配したいという考えから暴力に走るということもあります。
指導者自信が軽蔑されたり、甘く見られたり、攻撃されないように暴力による力で上に立ち、自分を守るということです。
暴力や大声で怒鳴ることなどは、相手が段々と慣れてしまい、もっと声が大きくなったり、暴力がエスカレートしていきます。
一度、そういったやり方を身に付けてしまうと、何か問題があった時に、何が悪いのかをきちんと説明し、相手を説得し、納得させて行動変容を促すということが面倒になり、暴力や大声で怒鳴ることから抜け出せなくなってしまいます。
実際の話で、「暴力による指導は子供のためになりませんよ」という話をしたら「じゃあ、どうやって指導すればいいのですか」と言われたことがあります。
暴力から抜け出せなくなっている典型的な例です。

本当に暴力が相手のためになり、成長を促すためにと思って、暴力を振るう人も多くいます。
その多くが、自分自身が暴力や体罰により育ったという思いがある人です。
人間は、理不尽なことがあると、自分がして来たことを肯定するために、理不尽さのなかにも、なんとか良い理由に結びつけようとする心理的傾向を持つと言われています。
「あれは自分のためを思ってやってくれた」「自分はあれによって成長できた」「苦痛は無駄ではなかった」といった形で事実のほうを自分の都合のいいように置き換えて考えます。

このように暴力を使った指導をするのにも様々な理由はあると思います。
体罰やDVを受け続けると、被害者が加害者に好意を抱く。または被害者が身を守るために好意を装うといった行動が見られます。
すると「暴力による指導を理解してくれている」などと思い込むことも少なくないと言われています。
さらに子供になると、善悪の判断ができないので、そのような大人の振る舞いを真似して学習していくことが考えられます。

これだけ暴力根絶が叫ばれている中でなくならないのは、このように非常に根の深い問題だからだと言えます。

 

だからと言って、アメとムチを使うような、褒める、叱るの指導が効果がないわけではありません。
だれが、いつ、どこで、なにを、なぜ、どのように褒めるのか、もしくは叱るのか、を工夫することで効果的になります。
子供相手なら、子供の発達段階や性格、どのくらい信頼感を持っているかでも大きく効果が変わります。
人によってそれぞれなので正解は分かりませんが、アメとムチを使うには、気をつけた方がいいことはあると思います。

そのときどきの気分や都合で変わるのではなく、一貫性があること。
公平性があり、納得してもらえること。
結果ではなく行動の善し悪しを見ること。
他人との比較ではなく、本人の能力と比較すること。

このようなことに注意を払う必要はあると思います。

褒められた相手がさらにやる気になる褒め方だったのか。
叱られた相手が素直に反省し、行動変容を決意するような叱り方だったのか。
このあたりがアメとムチの使い方の基準になるのではないかと思います。

使い方を間違えてしまって、罰の回避が最優先されれば、創造的な行動や新しい挑戦が促されず、思考が停止した状態を作り出しかねません。
周りへの影響も考えなければ、精神的なダメージを与えてしまうことも考えられます。
子供ならそこから、いじめや不登校になってしまうこともあるかもしれません。

 

子供は大人の行動や姿勢を見て、育っていきます。
良くも悪くも、身近にいる大人に影響されます。
大人の学ぶ姿勢や諦めずに我慢強く接するのを見て、子供は諦めずに、我慢強く物事に取り組めるようになっていきます。
大人も子供と一緒に成長していき、子供の手本となることが大切だと思います。

指導者と子供とのコミュニケーション。

子供たちを指導する上で、コミュニケーションは欠かすことができません。
大人と接している時と同じ接し方で子供たちと接するのでは十分ではないと思います。
子供と接するには、子供とどう接するべきかを考える必要があります。
そんな選手とのコミュニケーションの話です。

 

選手とのコミュニケーションなしには的確な練習はできません。
指導者の考えを一方的に伝えるというのではコミュニケーションとは言えません。
選手が望んでいることを聞き出すために、まずは選手の話をしっかり聞き、どうすれば役に立てるか考える必要があります。
相手の語彙力や伝える能力を把握した上で、選手の言い分を聞かなければ対応も決まりません。

特に子供たちの気持ちや考えというのは、見た目ではなかなかわからないものです。
会話の中で、質問を繰り返すことで、どうしたいのかを把握していくことをしなければなりません。

例えば、試合に負けた子供たちが悔しくなさそうに見えることがあります。
そのような選手を見かけると、大人たちはつい「悔しくないのか」とか「勝ちたいという気持ちが足りない」などと言ってしまいます。
しかし、子供の気持ちは見ただけではわかりません。
そう見える選手の中には、悔しいし、勝ちたいと思ってやっている選手は多くいます。

練習の取り組む姿勢も、それと同じです。
指導者には、選手が練習もやる気なさそうで、ダラダラした態度に見えてしまうことがあります。
実は、話を聞くとやる気に溢れていたり、ダラダラした態度をしている感覚がなかったりします。

本当にやる気がないのか、そう見えるだけなのか、コミュニケーションを取って整理しなければなりません。
やる気がなさそうに見えても、会話をしてみたらやる気があると知ることができます。
やる気はあるけどその練習メニューはやる気が出ないというのはよくあることです。
そのような選手なら、なぜそのメニューが必要なのかを理解できていればやる気を出してやるはずです。
上手くなりたいと思っている選手が、やる気を出して練習に取り組まないのは、提供している練習メニューが良くないということです。
選手に「やる気を出せ」と言う前に、指導者が変わる必要があります。

ダラダラしていると感じてしまうと「ちゃんとやれ」とか「真面目にやれ」などと言ってしまいます。
指導者の考える「ちゃんと」や「真面目に」が選手が考える「ちゃんと」や「真面目に」と共通の認識を持っているとは限りません。
選手は「真面目にやってるし、ちゃんとしてるよ」と思っているかもしれません。
指導者の「練習というものはこうあるべきだ」という考えが選手に伝わっていないかもしれません。
それをコミュニケーションを取ることで詰めていく必要があります。

 

選手の目指しているところや目指している選手像を共有することは大切なことです。
それに向かってどうアプローチしていくのかを考えていきます。
選手が目指す方向に指導しなければ、選手は話を聞きません。

指導者は、選手が上手くなるために言っているのか。
自分の言うことを聞かせたいだけなのか。
自分の言うことを聞かせたいだけの指導者は自分を変えることができません。
仮に選手が上手くなるためにと思って言っていても、それが選手が感じ取れなければ、やり方を考えなければなりません。
選手を変えるには、指導者自身が変わるしかないということです。
自分がどうすることで、選手はいい方向に行くのかを考えるということです。

ヘラヘラした態度で練習している選手に「ヘラヘラするな」などと怒ることで変わる選手はほとんどいないのではないかと思います。
言われた選手が「ヘラヘラしないで練習しなきゃ」と思って練習したところで、質の高い練習ができるようになるとは思えないからです。
そもそも、その練習の目的を理解し、自分が上手くなろうと思っていればヘラヘラするわけがありません。
だから、選手自身が上手くなろうと思えるようにアプローチしたり、練習の目的を選手に理解させることをしなければ選手のためにはならないと思います。

 

指導者と選手に信頼関係があることはとても重要なことです。
それを作るのに有効なのが、コミュニケーションです。
選手の話に耳を傾け、選手が目指すところにどうすれば近づけるのかを一緒に考えることで、さらに信頼関係が深まります。
そうすると、選手の本音が聞きだせるようになり、さらに質の高いやり取りができるようになります。
この選手には、こうコミュニケーションしようと考えることが選手を成長させる一歩になるのではないかと思います。